2011年10月26日水曜日
ガメラ対ギャオス
昭和のガメラはこどもの味方だ。敵の怪獣を倒す、きてれつな大作戦を考え出す。自衛隊の基地に忍び込む。はじめはけんもほろろに追い返されるが、大作戦が認められ、ついには作戦本部にVIP待遇で招待される。そこで自衛隊のコワモテ参謀クラスをさしおいて陣頭指揮を執ってしまう。作戦の有効性もさることながら、ガメラが登場してからは、彼にはガメラという従順かつ有能なとんでもない実行部隊がついていることが判明し、一目も二目もおかれることになる。学校では怪獣オタクと馬鹿にされてばかりいる子供が俄然輝き出す。それがみている同じような子供たちにカタルシスを与える。
2011年10月23日日曜日
第三の男
何気なくつけたテレビで見たこともない番組をやっている。白黒で撮影されたそれはドラマなのか映画なのか、町は終始、水蒸気か霧のような靄に包まれている。こういうのをドイツ表現主義というのだろうか、追うものと追われるもの、犯罪、探偵、怪物、こんな時間に、こんな番組をやっているチャンネルはどこだろうと確認してみる、ない、チャンネル数が表示されない、新聞の番組表を広げる、ない、やっぱりない、当てはまるような番組名はどこにもない・・・・・・・・お送りしました日常映画劇場、提供は・・・・・・・・
2011年10月21日金曜日
吸血鬼ドラキュラ
町中に、張り巡らされた、ドラキュラ映画のポスター。その日から、町のどこかが、変わってしまった。忌中と張られた、家々から、夜更けになると、一人、また一人と、出てくる、出てくる、見知った、顔、顔、顔。彼らは生き血を求め、真夜中の通りをさまよい歩いているのだ。なぜなら、昨日、密かに、僕が、剥ぎ取って、水たまりの中に、捨てた、ポスターが、今朝、また、塀に、張られていたからだ。ポスターから、したたり落ちる、その黒い血のような泥水は、ポタ、ポタ、と、モールス信号のような音を、誰もいない所で、響かせるのだ。
2011年10月10日月曜日
B級映画
たとえばフランケンシュタイン対ドラキュラというタイトルのB級映画があったとしよう。博士がフランケンシュタインの怪物を作っているその町にドラキュラ城から逃げてきたことをにおわせる女がやってくる。謎の墓荒らし事件が頻発しそれを刑事が追う。同時にドラキュラ一味の暗躍が密かに町で進行する。ただそれだけ。なにも起こらない。地味なままの町。チープな特撮と奥行きのない光で撮るロケ撮影。あるのは紋切り型の役者のせりふと臭い演技だけ。フランケンシュタインとドラキュラが全面的な肉弾戦を繰り広げてしまったらそれはZ級になるし、それに大金をかければハリウッドA級大作になってしまう。フランケン話とドラキュラ話は、ねじれることすらなくパラレル。すっとぼけた肩すかしが昼メロのすれ違いのように、B級映画には必要なのだ。B級映画はわかる人にしかわからない。B級映画の謎は、映画の中では起こらない。スクリーンとこちら側が、メタ化して日常的現実の中でじわじわとわき起こる。だからB級映画を語るこのブログは、映画評論ではない。どこまでも、変態だが奇妙な現代を映した、常識人の、その日常を、語る、日記、だ。
2011年10月8日土曜日
アイアムレジェンド
これは決して終末ものなんかではない。これは悲しき英雄伝説としてのフランケンシュタインものである。フランケンシュタイン博士がなぜフランケンシュタインの怪物を作ったのか。それは亡き妻や子供の面影をよみがえらせたかったからだ。半死体のゾンビを巣から狩り出すサマはあたかも墓から死体を掘り起こしているかのようだ。地下の実験室内にたてこもり、何体ものゾンビを損じて理想の人間を作り出そうと励む。萌えこそが人類滅亡後に唯一有効な生きる希望となりうる人生哲学だというのか。しかし、それは甘美な緩やかな自殺のようにもみえる。ふたつあるラストシーンで批判もあるみたいだが、この劇場版ラストもそれはそれでやるせない。
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